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shi・ro・chi

サムライ

                  shirpchi
   


サムライ       聖@浅葱

 累々と横たわる屍体。
 一本だけ転がった腕。血と脳漿にまみれた顔面。胴切りになった腹からとびだした臓腑……。
 異臭漂うその真っ只中に、一団の男たちがいた。いずれも、見るからに屈強そうな男たちだ。
 彼らは、一様に浅葱色のぶっさき羽織を身にまとっていたが、そのはかない色はおびただしい返り血で、すでにどす黒く変色している。
 それは、このまばゆい光に満ちた白昼にはまるでそぐわない、無惨な光景であった。
「人殺しっ」
 誰かが叫んだ。
 周囲には、いつのまにか大勢の民衆が集まっている。
「鬼や、みぶろは鬼や!」
 また、誰かが叫んだ。断末魔のような絶叫だった。
 突然、中央にいた男が鋭い音をたてて血振るいをした。
 ……あたりが、しんと静まった。
 男はにやりと笑うと、足元に呻く身体へ無造作に刀を振りかぶった。
「やめろっ!!」
 切っ先をピタリと止め、男はゆっくり首をまわした。
 そこには、鋭い視線を放つひとりの武士が冷然と佇んでいた。
 武士は男たちと同じ浅葱色の羽織を着ている。が、武士のそれには一滴の血もついていない。
 ふいに、一陣の熱風が頭上を吹きぬけていった。
 武士の右の袂がひらりとひるがえる。その瞬間、返り血のこびりついた男の頬がふたたびにやりと笑った。

『武家上申書』
 一 守護職二組
 一 所司代一組
 右、何レモ一組之人数凡三十人宛
 一 新撰組一組
 但、是ハ只今迄モ始終見廻リ居候得共、猶亦改テ相達積。
 右ハ追テ永久之御警衛向相立候迄、当分之内洛中夜廻リ相達。尤見廻リ場所案内之為、町奉行両組三人ツゝ差添候様可相達候事。
総督附属八百人
 一橋人数四組
 壱組二十五人、槍、剣隊之者計。但、従者有之候間猶取調之上、可申上候事。
 右、昼夜回リ之儀ハ、御築地内外并市中寺院等、厳重可為相廻事。
         〔『孝明天皇紀』〕

 元治元年、夏。
 混沌とした世情は加速度を増し、都はこのとき、まさに地獄であった。

「きみは、本当に鬼だな」
 そうつぶやいたのは、ほとんど無意識だった。山南敬助は自分の口からもれたそのひとことに、驚いたような目をあげた。
 すでに日はとっぷりと暮れ、あたりには夜の静寂がはりついている。
 月は、なかった。
 山南の前には、ひとりの男が黙々と歩いている。
 隙のない背だ。
 山南はかすかな夜天光に浮かぶそれを鋭く見すえ、深く吐息をついた。
 暑い……。
 炎をくすぶらせる不快な湿気、からみつく澱んだ空気。町中がまるで高熱を発しているかのようだ。
 こめかみにひとすじの汗が流れる。真一文字に引きむすんだその唇が、ふと自嘲気味に歪む。
 腰の刀がひどく重かった。
 昼の喧騒を逃れて、すでに一刻。
 暑さに喘ぐ夏枯れの山茶花を横目に、微妙な距離を保ったふたりの足取りは、寸分違わずに打ち揃っている。
 眼前には、一本の大きな公孫樹。
 男は唐突に歩を止め、振りむいた。
「おれが鬼なら……」
 おまえはなんだ、とその目が云った。冷ややかな目だった。
 山南は思わず一歩退いた。
 風が、強く吹きぬけていった。京の燃えるような熱風だ。あまりの熱さにおいしげった公孫樹の葉が、ザァッと悲鳴をあげる。山南の右の袂がひらりとひるがえった。
 その腰に・・・・刀が、あった。
 男はかすかに眉をひそめ、しかし、ふたたびスタスタと歩きだした。
「待てっ!」
 山南は鍔元をまさぐって鯉口を切り、ぎこちなく鞘を奔らせた。
「よせ」
 男が振りかえらずに云った。が、抜きはなたれた刀の切っ先は、真っすぐにその背へと向けられている。
 左、片手青眼。
 熱風がふたたび、ふたりのあいだを駆け抜けていった。山南の右袖が虚しくはためく。
 男は背を向けたまま、
「思想なんざ、必要ねえ」
「ならば……」
 いいかけた山南をさえぎって、
「必要なのは、行動あるのみ」
 ぴしゃりと云った。とりつく島のない拒絶だった。
 男はみぶろ、すなわち新選組の、副長土方歳三だった。
 そして……。
 山南もまた、みぶろであった。

 やがて、ある寺の山門からひとりの僧があらわれた。
 僧はふたりをみとめると清廉な所作をもって合掌した。墨染めの衣の裾が熱風をはらんで、ふわりと揺れる。
 土方歳三は、しかし歩をゆるめることもなく通りすぎていった。
 山南は無言でそれを見送った。
 残された炎闇に、左手の抜き身がきらりと光った。

「……ひどいものです」
 くぐもった声で僧が云った。
 庫裏の奥、ふたりが座した小さな部屋は外の熱気から遮断され、まるで異空間のようにひっそりとしている。
「今日もひとり、門前に打ち棄てられておりました。……人は、なにゆえに人を殺し、また殺させるのか」
 僧が自問自答のように呟く。清廉な横顔が、まるで異物を呑みこんだかのように苦しげに見える。
 山南は答えなかった。
 ただ、それ以上に苦しげな顔で、かたわらに置かれたろうそくの炎へ視線を逃がした。端正な顔立ちがために、眉間にきざまれた深い皺がなお一層つらそうにみえる。が……。
 一瞬の間もなく、僧のことばがそれを追った。
「なにもできぬ、と申されるか」
 声は抑えられている。しかし、
「なにもなされぬままに、なにもできぬと申されるか」
 それは鋭い切っ先がごとく、山南の胸を貫いた。
 山南は頬を硬くこわばらせ、
「わたしにいまさらなにができると」
 と、おのが右袖へそっと手をふれた。僧はそれにちらりと視線を走らせたが、
「人は……武だけでは動きませぬ」
 静かな声で返した。
「されば、論のみでひきいていくことも、またでき申さぬ」
 山南の首が小さく振られた。そして、まるでなにかにあらがうかのように、その唇が真一文字に引きむすばれた。
 ふたりのあいだに、ひっそりとした沈黙が落ちていった。
 僧は膝元の茶をそっと手にとった。茶はすでにその熱を失っている。
 ゆっくりと口に含む。
 山南はそれをじっと見つめている。 ふいに、かすかな雨の匂いが宙を流れた。山南の視線がわずかに揺れる。
 刹那に。
 激しい雷鳴と蒼銀の光が、空間を引き裂いて奔りぬけた。
「新選組には、鬼がおります」
 突然、山南が云った。呻くような声だった。だが、僧は一瞬の逡巡もなくそれに答えた。
「鬼にならずば、できぬこともありましょう。たとえ、それがまちがっていたとしても。……されば、土方殿は」
 さえぎるように山南の顔がけわしくなった。
 なにかを云いかけたその唇が、かすかに震える。それはまるで、内心の激しい相剋がことばを失わせているかのようだった。
 僧は深く息を吸いこみ、まっすぐに山南の目を捉えた。
「山南殿……新選組を、お捨てになられますか」
 山南は唇を噛みしめ僧を見た。僧は慈愛に満ちた眼差しで、ただじっとそれを受けとめていた。
 外は、すでにどしゃぶりの雨だった。

 武士とはなんだ。
 濡れそぼった闇のなかで、山南は何度も自問を繰りかえした。
 武士とは、侍とは……。山南は左の手を、おのが右腕へそっとのばした。
 そこにあるはずの、あってしかるべきもの。
 だが……。

 あの日。
 あの頬凍る、上弦の月の夜。
 血だまりに転がった絶望。
 ただ蒼褪めて、凄惨たるおのが運命を嘆き、やがて恐ろしい懐疑に押しつぶされてしまったあの・・・とき。
 しかし、その向こうで目にしたものは、ただ滑稽なるおのれの姿だった。
 激情に流され、それにつりこまれて従うのは、無知な、無力な人間と軽佻な人間だけだ。激変の凄まじさを血とともに知り心魂に撤した者は、人には常に幾つかの道があり、絶対唯一の道などないことを知っている。
 自分は、果たしてそのどちらを選ぶのか。無数に存在する真理の、なにを信じ、なにを求めるのか。
 あの日。
 あの頬凍る、上弦の月の夜。
 煌々たる蒼き光を浴び、やがて遠くなる意識の下で、自分が選んだ道は、いったいなんだったのだろう。

 空を駆け巡る鳴神と篠を乱すかのような雨音が、山南の耳を激しく打つ。
 間違い、であったか。
 ……。
 迷い、か。
 ……。
 ……否。
 否、否、否!
 山南は激しくかぶりを振った。
 乱れうつろいゆく世情に、国を捨てすべてを捨てて選んだこの道に、何の間違いがあろうか。あのとき、あの瞬間に、何の迷いがあったろう。
 新選組副長。
 それはみずからが選んだ、選びとった道なのだ。ならば……。

 ろうそくの炎が、ジジッと小さな悲鳴をあげる。
 山南は静かに障子を開けた。
 東の山々にひとすじの光を流し、夜はもうしらじらと明けはじめている。
 わずかに残るちぎれ雲、それを染める血のような紅と、そして未だ暗き沖天には綺羅と輝く明けの明星。
 雨は、すでに遠く去っている。
 山南は固く目を閉じた。

 どこからか、ひっそりと冷たい空気が流れている。
 庫裏の奥の、異空間のようなその一室で、山南はひとりすずやかに端座し、薄闇にさらされたおのが愛刀をじっと見つめていた。
「遅かったな」
 視線を切っ先に据えたまま、突然、山南が云った。
 その声とともに、背後の障子が音もなくスゥッと開く。
 土方歳三だった。
 山南は抜き身をかたわらに置き、静かに振りかえった。
 視界に細い月が映る。
 土方はそのわずかな光を背にし、冷然と黙している。
 表情は見えない。
 山南の無言の視線に促され、土方は忌々しげに舌をならしながら、しかしゆっくりと三歩、前へ進んだ。
 障子は開け放たれたままだ。
「論など、いらぬか」
 唐突に山南が云った。
 土方の目がきらりと光る。しかし、山南は鋭い視線で、ことばをつづけた。
「たしかに、いまのわたしには武をない。だが、武のみを信ずるきみには、論がない」
「なにが……云いてえ」
「新選組は強くならねばならぬ。そう云ったのは、きみだ」
「答えになってねえな」
 土方の舌打ちの音が、ふたたび部屋に響いた。が、
「いまのままでは、我らに先はない」
 山南は容赦なく云った。
「この時勢において、新選組はどうあるべきか。いかに生くべきか。それを考えなければならぬ」
「……くだらねえ」
 土方は吐き捨てるように云った。
「思想だの、論だのとごたくを並べてなにができる。そんなものは尊王攘夷とやらにかぶれた、阿呆な連中にまかせておけばいい。我らに必要なものは行動だけだ」
「わたしは、はやりの尊王かぶれではない。同様にするな」
 土方がふんと鼻で笑った。そして、
「おれには、おんなじに見えるぜ。てめえらなんざ、首が飛んでもいっそ血もでまいよ」
 嘲笑うように云った。
 山南の目が、一瞬すっと細くなった。
 かたわらに置かれていた抜き身の刀は、すでにその左手に握られている。
 咄嗟に土方がうしろへ飛んだ。
 山南はそんな土方を、ただじっと見据えている。
 凄まじい殺気だった。
 灯心が、ゆらりと舞った。
「土方」
 山南は無機質な声で云った。
 切っ先がすっと土方の眉間に向けられる。とほとんど同時に、土方の刀の鯉口が小さな音を立てた。
 闇が、凍りついた。

 長い沈黙だった。
 真剣勝負の如く、ふたりはしばらくの間、そうして睨み合っていた。
 やがて、それを最初に破ったのは土方だった。
「聞かせてもらおう」
 土方はまるで観念したかのように、山南の真っ正面へどかっと座りこんだ。山南は静かに頷き、刀を鞘に納めた。
「わたしには、もはや天下をどうするなどという論はない。いまはただ、新選組はどうあるべきか、それのみを考えている」
 山南は大きく息を吸い、そしてすべてを吐きだすかのように続けた。
「これから先、世の中はもっと荒れる。いくさになる。そして、ことをおこすときになによりも大事なのは知るということだ。いくさは、喧嘩とは違う。それは、戦国の世もいまも変わらぬ。が、我らのいくさには大義、すなわち思想の裏づけがなければならぬ。いまは思想の時代だ。それはつまり、尊王攘夷ということだ。それがなければ世の支持はない。きみがいくら抗おうとそれはまぎれもない事実だ」
 土方の片眉がピクリとあがる。
「人は、武のみでは動かぬ」
 わかるか、と山南の目が鋭く云った。坦々とした低い声が、しかし斬りこむような激しさを秘めている。
 土方はごくりと唾を飲んだ。
「が、きみはきみのままでいい」
 思いがけないことばだった。土方は拍子抜けしたように山南を見た。
 土方は山南のことばをはかりかねていた。いまのいままで自分を批判したその口で、なにを云うか、と思っている。考えをあらためろと、そう云いたかったのではないのか。
 山南はそんな土方の疑問を素早く感じとった。そして、
「新選組は、あくまでも武の集団でなければならぬ」
 と、くっきりとした声で返した。
 土方は苦虫を噛み潰したかのような顔をした。山南のそのひとことで、すべてが了解できたのである。
 いくさになる、と山南は云った。
 いくさには、なによりもまず武力が必要だ。それがなければどうにもならぬ。しかし、これからはじまるであろうこの動乱のときを、それだけでのりきっていけるのか。
 山南は、そう云っている。
 土方はこのときはじめて、山南の占める位置の大きさをひしひしと感じた。
「論は、わたしが役目だ」
 果たして、山南が云った。
 山南は自分の立ち位置を正確に計算し、そのうえで答えをだした。
 曰く、影になると云うのだ。
 山南の云う論とは新選組の知謀、すなわちあらゆる工作、作戦を引き受けるということだった。それには、たしかに武力は必要としない。先を見通すことのできる明晰な頭脳と一瞬の決断力があればそれでいい。そして、その点では山南ほど適任なるものはいない。
 土方は呻くように云った。
「それで、いいのか」
「かまわぬ。ただし……」
「ただし?」
「ひとつ、云っておく。こののちなにがおころうと、きみはあくまでも新選組副長としての道を貫くのだ。決してあきらめてはならぬ。腹を切らねばならぬときはわたしが、切る」
 いつのまにか月は沈み、天には綺羅と耀く星々が満ちている。その開け放たれた障子の向こうに、山南はふっと視線を移した。
「我らは、新選組の両輪だ。されば、もはや恐いものなどない」
「そうだといいがな」
 土方が低く云った。その一瞬、山南の頬がかすかに笑ったかのようだった。
「わたしは新選組副長山南敬助だ。それ以外にこの世に山南は存在しない」
 くっきりとした山南のことばに、迷いは一切なかった。
 土方はあらためて山南を真っすぐに見つめた。
 片腕を失くしたくらいで、この男はいささかも変わってはいなかった。
 むしろ、その緻密な頭脳はますます鋭さを増しているかのようだった。そして、失ってしまったはずの剣の力さえも、敵うものはたぶん、いまこの京洛でも数えるほどしかいまい。素直にそう思えた。
 土方はその身から発せられる強烈な誇りを痛いほどに感じた。
 新選組副長山南敬助は、いかにも武人らしい静謐な顔で端然とそこにいた。

「さて……」
 山南はあらためて土方へ顔を向けた。
「今度の一件だ」
「うむ」
「会津は、使うな」
「なんだと?」
「彼らの助勢を頼んではならぬ」
 土方は無言で先を促した。
「動かせば、結局彼らの手柄となるのは明白。しかし」
 土方はハッとした。
「おれたちだけで捕ったとなれば」
「そうだ。我らの名は京のすみずみにまで知れ渡る」
「むう」
 土方が苦々しい声で呻いた。
「十分だ。決してひとりも逃すな」
 土方は力を込めて頷いた。そして、
「屯所は」
 どうする、とその目で云った。山南は答えるかわりに首を振った。
「留守を狙われる。おまえ以外にまかせられるヤツはいねえ」
 土方がじれたように云った。
「この……」
 山南は左の手を空虚な右袖へのばし、
「隻椀に屯所を守れと?」
 自嘲するかのように笑った。
「やれるだろう」
 土方は確信をこめて云った。だが、山南は唇に微笑を浮かべたまま、
「たしかに。浪士の三人や四人、ものの数ではない。しかし、もし万々が一ことがおこったとき、隻椀に屯所を守らせたなどと云われては新選組の恥となろう。わたしは武士だ。武士とは、なによりも恥を知る者」
 と、きっぱりと云った。
 土方がすっと視線をあげた。
「武士、か」
「然り」
「……笑わせてくれるぜ」
 そう呟いた土方のことばに、山南は力強く頷き、そして颯爽と笑ってみせた。それは正しく武人の顔であった。

 高瀬川のせせらぎに、かすかな喧騒がざわめいている。
 闇……。うだるような夜の闇。
 その燃える炎闇を、ひとりの男が息荒く走っている。
 男はいたるところに刀傷をうけ、全身を真っ赤に染めていた。
 と、陽炎のように、ひとつの影が道の中央にゆらりと佇んだ。
 男はハッと立ち止まった。
 影は袴の裾を軽くさばくと、間合いをつめるがごとく、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
 男は瞠目した。
 影はすでに一足一刀の間境を越えようとしている。その、流れるような滑らかな動きには一瞬の遅滞もない。
 男は咄嗟に刀を抜こうとした。
 と、ほとんど同時に、瞬息の左片手斬りがあざやかに空間を一閃した。
 きらり、と切っ先が光った。
 男はよろめくように二三歩、足を進めた。……音もなく、首が落ちた。
 その瞬間、凄まじい血飛沫が漆黒の空を真っ赤に染めた。
 遠く西の地平線では、五日の月がいままさに沈まんとしていた。

 新選組副長山南敬助。
 武に走る新選組に於いて、ひとり思想に生き、そしてそれゆえに隊中で孤立、やがて心の病に陥り自ら死を選んだと、いま人は云う。が……。
 新渡戸稲造『武士道』に曰く。
『もっとも進んだ思想をもつ日本人の表皮をはいでみよ。そこに人は、サムライをみるであろう』
               了

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沖光始末

春が逝きました。
もうすぐちゃあと彼女のご命日です。
私にできることは彼女が残した小説を発表すること。
こころあるかたに読んでいただければ幸いです。
shirochi


沖光始末         聖@浅葱

 『新撰組』副長山南敬助知信、その愛刀『赤心沖光』の押型が、残されている。
 無数の刃こぼれと、生々しい鮮血。そして切尖から一寸程下の、折れんばかりの刃切れのあとが、闘争の凄まじさを伝えている。傍らには『……岩木升屋ニ押入ノ浪士ヲ討取……云々』と僅か数行の事態の記述があるだけだ。
 だが、この血塗られた『赤心沖光』の壮絶な刃切れには、幕末という特異な時代に火花を散らした、二人の男の思いが秘められているのだった。

 文久四年正月二日。この日、新撰組は上洛をする将軍の警護のため、総員を率いて大坂へと出陣した。晴れの任務といってよい高揚が、みなの顔にある。だがひとり山南敬助は、行軍の最後尾で、その浅葱色の隊列を複雑な思いで見詰めていた。
 敬助は、本来徹底した尊皇攘夷論者である。が、八・一八政変後の新撰組は、敬助の思想とは真反対の道を駆け出していた。
 毎日のように繰り返されるのは、過激尊攘派浪士への血の制裁と、そして新撰組内部での同志への容赦のない粛清である。いまや華洛での日々は、ただ敬助の心を重くするばかりだった。『粛清』されるというのなら、まず第一に自分がふさわしい。敬助は、そんな自嘲ともいえる、無能な呟きの日々を過ごしていた。
 と、突然、甲高い笑い声と下卑た野次が、どこからかあがった。
 整然と歩いていた隊士たちは、一斉に騒めき、声の主を探す。敬助も思わず、あたりを見回した。
 沿道には、この行軍を見物するために来たと思われる者たちが、彼方此方にまばらで固まっている。
 当時、洛中の人々は、京を我が物顔で荒らす尊攘派浪士をひどく嫌っていたが、それを取り締まる側の新撰組に対しても、同様の思いを持っていた。血を血で洗うような新撰組のやりかたは、市井の人々にとって恐怖以外の何物でもなかったのだ。がために、いつしか新撰組は『壬生浪』と呼ばれ、蔑まれていた。その上、新撰組隊服の染め色は、田舎侍の蔑称でもある浅葱色だった。野次は、それを嘲笑ったものである。
 そんな中、声はますます高くなり、すでに血気に逸った何人かの隊士は、刀の鯉口を切り、眼光鋭く辺りを見回していた。
(まずいな)
 と、敬助は思った。
(このままでは、すまぬかもしれぬ)
 敬助は、腰間に携えた赤心沖光の柄に、そっと手をかけた。
「いたぞ、あいつらだっ!!」
 叫んだのは、敬助のすぐ前を歩いていた隊士の一人であった。彼は、叫ぶと同時に人垣に向かって走りだした。何人かの隊士がそれに続き、敬助も咄嗟に彼を追った。
 あっという間に、人垣が割れ、どよめきが起こる。と、脱藩者らしいひとりの浪士が捕らえられた。浪士は、尚も口汚く罵り続ける。
「何が新撰組だ、お前らはただの犬にすぎぬ。幕府の犬だ! 今のうちにせいぜい意気がっているがいい」
「何いっ!!」
 逆上した隊士が、スラリと刀を抜く。
「やめろっ!!」
 止めたのは、敬助だった。
「やめるんだ。こんな場所で騒ぎを起こしてどうする。刀を納めたまえ」
 敬助は穏やかに彼らを諌めた。
「ですが、副長。このままでは我らの名が廃ります」
「馬鹿な。きみたちはそんなくだらん理由で人を斬ろうと言うのか」
 およそ新撰組の副長とは思えぬ言葉になかば鼻白みつつも、隊士たちは渋々と刀を引いた。
 敬助はほっと安堵のため息を洩らし、浪士を捕らえた隊士に声をかけた。
「きみ、その人を放してやりなさい」
 と、その時。一瞬の隙間を縫って光が走り、ビシャッという音と熱い血の塊が敬助の頬を濡らした。
 とたんに、騒ぎを見守っていた人々の間から、悲鳴のような声があがる。
 敬助は呆然とした。足元には、歪んだ笑みを浮かべたままの、浪士の首が転がっている。その立ち篭める血の匂いの中に、新撰組のもう一人の副長、土方歳三がいた。
 土方は、手にした血刀に勢いよく素振りをくれると、敬助をまったく無視し、ひとりの隊士を町奉行所への始末に走らせる。
「土方くんっ!!」
 敬助は声を荒げた。が、土方は呆れたように敬助を一瞥し、くすっと笑って背を向けただけだった。
「土方、貴様……」
 思わず駆け寄った敬助の手が、彼の肩をつかむ。振り向いた土方は、ひどく冷酷な顔をしていた。
 二人の視線が、一瞬の火花を散らす。
「世に恐れられてこその新撰組だ」
 土方はそう言うと、片頬に薄い笑みを浮かべて敬助の手を振り払い、まるで何事もなかったかのように歩きだした。敬助は、そんな彼の背をじっと見詰めるだけだった。そこには、試衛館時代の、あの些細な馬鹿話で笑いあった親密さは、もう微塵もなかった。

 やがて、それは大坂に着いてほどなくのこと。
 大坂船場高麗橋筋にある呉服問屋 『岩木升屋』は、度重なる尊攘派浪士の押し借りに、ほとほと困り果てていた。浪士らは、その押し借りを気丈にも三度に二度は断る態を崩さない升屋に業をにやし、今夜にも押し込みに入りそうな気配であったのだ。そのため升屋は、新撰組の大坂駐屯にこれ幸いと、店の警護を頼み込んだのである。
 そして、この夜。升屋の警護に出張ったのは、敬助と土方であった。
「サンナン、来たぞ。ぬかるなよ」
 土方の低い声が耳を掠める。敬助は沖光の鯉口を緩め、黙したまま頷いた。
 闇に沈む辻の奥から、月影を踏んで七、八人の浪士が近付いてくる。修羅場を踏んだ二人にとっては、たいした人数ではない。だが、敬助は小さく安堵の吐息をつく。彼は、この夜ひとつの疑念を抱いていた。
 今夜の出動に『二人でいい』と言ったのは、土方だった。その冷ややかな横顔が、敬助の胸中にどす黒い暗雲を湧き立たせたのだ。 
(斬られる……)
 ふと、そんな言葉が脳裏をよぎる。
(私は、今夜ここで斬られるかもしれぬ、この男に)
 敬助は、喉奥でくくっと笑った。
(ならば……。ならば私は、甘んじてそれを受けようか。それもまた、一興かもしれぬ。なあ……土方)
 そう、埒もない、と一蹴したつもりだったが、漆黒の闇夜に二人、無言で佇んでいると、疑念は恐怖へと転じていた。だが、押し込みの浪士らの出現は、それを掻き消した。
 一瞬のことであった。凄まじい絶叫と夥しい血飛沫が凍る静寂を破り、二人の足元に無残に斬り裂かれた肉の塊が、音を立てて転がった。顔が石榴のように割られている。
 浪士の一人が、悲鳴に近い叫びを上げた。
「な……何をす……!!」
 男は、だがその言葉の終わらぬうちに、敬助の放った鮮やかな抜き打ちで、呆気なく斃れた。残された浪士らは、あまりにも突然すぎるこの惨劇に、言葉を失った。
 むっとするほどの血腥さに、再び静寂が凍り付き、そして、ゆっくりと口を開いたのは、土方であった。
「さて、次はどなたかな」
「き、貴様ら何者だ! 名を名乗れっ」
「ふん。あいにくと不逞浪士なぞに聞かせる名は、持ち合わせておらぬ」
「何いっ、小癪な! かまわぬ、相手は二人だ。押し包んで殺ってしまえ!!」
 やにわに敬助の頭上へ、白刃が躍り掛かる。敬助は、それをいとも簡単にひらりと躱し、次の瞬間には、すでに彼の沖光は、浪士の胴に深々と吸い込まれていた。
「サンナンっ!」
 土方の言葉で、すっと身を屈めた敬助の頭上すれすれに、彼の剣が一閃する。と、蒼い月華の中に一際派手な血飛沫を撒き散らし、浪士の首が飛んだ。敬助はその体勢のまま、右にいた浪士の身体を鋭く斬り上げている。まるで申し合わせたような、二人の絶妙な剣戟であった。
 瞬く間に残された浪士は、たった一人となった。が、月明かりに照らされたその浪士は、『浪士』と呼ぶにはあまりにも不釣り合いな、まだ前髪の少年だった。
 彼は、仲間の屍を足元にして僅かに震えている。
 敬助の手が、一瞬止まった。
(まだ、子供ではないか)
 敬助は、沖光を引いて少年の前に立ち、さとすように言った。
「きみ、大人しく縛につきなさい。きみのような子供の命まで、我らは取ろうとは思わぬ」
 思いがけない穏やかな言葉に、蒼白になっていた少年の頬に、かすかに安堵の色が浮かぶ。
「甘い」
 後方からの声だった。振り返った敬助は、土方の眼がきらりと光り、殺気が放たれるのを感じる。
「どけ」
 敬助は、反射的に刀を構えた。同時に、土方は野獣のごとく跳躍した。
 刹那、交錯した剣の切尖越し、激しい血飛沫が空に翔んだ。と、二人の足元に音を立てて落ちたのは、敬助の赤心沖光だった。
 沖光は、その切尖から一寸程下に折れんばかりの刃切れをおっていた。
 そして土方の瞬息の剣は、敬助の肩を無情に斬り裂いていた。その肩から吹き出す真っ赤な血が、瞬く間に路上に血だまりをつくる。
(逃げろっ!!)
 敬助の叫ばんばかりの声は、しかし呻くようにしか出なかった。土方は無表情で敬助の横を通りすぎる。少年の引きつるような声がした。
(に……逃げてくれ)
 思わず眼を閉じた敬助は、悲痛な絶叫を聞く。途切れそうな意識の中で、ようやく振り返ったその眼には、酷薄とも親密とも思える、月華をうけて曖昧に揺れる土方の顔が映っていた。
 敬助は、そこで意識を失った。

「山南さん……、山南さん」
「う……」
 敬助は自分を呼ぶ声に、薄く眼を開けた。そこには、心配そうな沖田総司の顔があった。
「ここは……」
「山南さん、私がわかりますか?ここは大坂です」
「大坂? 総司、私は大坂にいるのか」
 沖田はにっこりと微笑み、頷いた。
「よかった。山南さん、もう大丈夫です。山南さんを背負って、土方さんが血相を変えて駆け帰ってきたときは、もう駄目かと思うほどでした。土方さんは山南さんの血を浴びて、まるで鬼のように『蘭方医を呼べ』と怒鳴って」
「土方が……」
 ふいに、敬助は身を起こそうとした。
「山南さんっ!! 起きては駄目です。やっと血が止まった所なんですから!」
 沖田は慌てて敬助の身体を押さえた。
 一瞬、激痛が走り、敬助はその瞬間、愕然として悟った。
 もう剣は振れぬかもしれない、と。そしてその哀しみは、ゆっくりとしみるように、敬助の全身へとひろがっていった。
「山南さん、昨夜の敵は、よほどの使い手だったのですね。山南さんほどの方が、こんなひどい手傷を負うなぞ、考えられぬことです」
「敵?」
「え? 山南さん、昨夜のこと覚えてないんですか」
「ああ、いや覚えているよ。そう、確かに凄まじい使い手だった。私には、かなわぬほどの……」
 と、障子がカラリと開けられた。
「総司、サンナンは?」
 と言った低い声の主は、土方だった。
「あ、土方さん。今、呼びに行くところでした。山南さん、先ほど気が付かれましたから」
 黙って頷く土方の視線に促され、沖田は部屋を辞していった。
 そして……。
 それから、どれほどの刻が過ぎたのか。いつのまにか暮れ泥む夕暮れに、紗のような薄雪が降りだしていた。
「土方、君の望んだ通りになったな」
 小さな吐息とともに吐き出された敬助の言葉に、土方は頬だけで笑い、
「新撰組のためだ」
 と、言った。かすれた声だった。
 特徴のある土方の鋭い眼が、敬助をじっと捉えている。突き刺さるようなその静寂に、外の薄雪だけがさらさらと音を立て、降り頻っていた。
 ふいに肩の傷が疼く。その痛みは、敬助の心をわずかに荒ぶらせた。敬助は、押し殺した声で言った。
「土方、何故私を殺さなかった」
「殺す?」
「そうだ。私が邪魔ならば、殺せばよかったのだ。……私は、もう剣は持てぬ。剣をふるえぬ剣客など、新撰組には不要だ。なのに、何故だ。なにゆえにとどめをささなかった」
 土方は黙したまま、視線をそらした。
「土方……答えぬのか。そうか、今更、私にはそんな価値もないか」
 敬助は、自嘲気味に笑った。肩傷が、燃えるように熱い。
 やがて、土方はそらした視線のまま、言った。
「サンナン、お前の思想は新撰組には不要だ。お前が副長としてその考えを貫けば、新撰組はいつか必ず壊れる。そしてそうなった時には、俺はお前を不良分子として殺さねばならぬだろう。俺の……新撰組の行く道をさえぎるものは、斬る。それだけだ。それが、新撰組の定めだ」
「ならば……ならば何故、今の内に殺さぬ。土方っ!!」
「俺は、お前を殺したくはない」
 絞るような声だった。
 敬助はハッとした。そう言って、逃れるように席を立った土方の横顔に、遠い過去に友情を結んだあの優しい面影をたしかに見たと思ったのだ。
 だが、障子を開け、刺すような雪模様を見せて振り返った土方の顔には、非情というほかない、冷たい眼差しがあるだけだった。それは、新撰組副長としての顔だった。
 土方は何かを振り切るように、小さな吐息をつき、部屋を出ていった。
 ふと気付くと、敬助の傍らに一枚の押型が置かれていた。それは、血まみれの赤心沖光の押型だった。壮絶な打撃のあとの刃切れに、眼を奪われる。
(土方は新撰組を救い、同時に私を救おうとしたのか)
 敬助は、土方の非情と友情に心をゆさぶられ、哀しいような嬉しいような狭間で眼を閉じた。
 ……藩を捨て、浪々の身となり、いつしか攘夷運動にその身を投じ、やがて、偶然居着いた試衛館で、彼と出会い……。そして敬助は、彼とともにここまで歩いてきた。彼とともに新撰組を支えてきたつもりだった。
 だが、敬助は今、この新撰組でもはぐれてしまったのだ。結局、たしかな居場所を持てなかった半生だったが、それでも彼……土方歳三という男との、確かな絆は持てたのだと、敬助はふとそんなことを思っていた。

 この日を境に、後世伝えられている幕末同時期に書かれた、新撰組のどの文献にも、『山南敬助』の名を見いだすことはできない。
 ただ、残されたものは、彼の愛刀 『赤心沖光』の押型とその活躍ぶりについてのわずかな記述、そして元治二年如月二十三日の彼の死が記された、寺の過去帳だけである。
 山南敬助は、脱走して捕まり斬首されたとも、また不用となった身を自刃したとも、伝えられている。が、山南敬助の最後は、晴れて潔いものであったと、筆者は信じたい。
               了

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春の月

                   shirochi


春の月         聖@浅葱

 新撰組総長、山南敬助。その死にざまについては、隊規違反により斬首されたとも、鬱なる精神状態で自刃しはてたとも伝えられている。
 いずれにせよ、新撰組創設以前の、江戸は試衛館時代より居候の身となって、近藤、土方らと友誼を結び、京にのぼって隊創設に深くかかわり、白刃のなかに身を投じることになったこの男の最後は、軟弱で優柔なイメージにとらわれている。
 尊皇攘夷に理解をもち、また剣も、志士らが多く出入りしたという千葉道場で、北辰一刀流を修めたという山南は、新撰組では異色といっていい。仙台藩をいかなる理由でか脱藩し、江戸に流れて試衛館に居つくまでの詳細は不明だが、志士にたいする血の制裁へとひた走る新撰組とは、心情的に齟齬があったことは推測できる。副長ー組長の指揮系統からはずれた『総長』という、敬して遠ざけられた観の役に甘んじたことも、その傍証となろう。ともかく山南は、欝屈をかかえざるをえなかった、それはたしかなことだ。
 だが、と思う。それでも山南敬助は、新撰組から脱走したのでも、錯乱して死したのでもないと筆者は思う。
『水の北 山の南や 春の月』
 この句は、新撰組副長土方歳三のものである。伊東成郎氏の解釈を引けば『「水の北」つまり私(土方)が踏みも見ずの北(仙台)から上府してきた「山の南」は、春の月のような男だった』ということになる。山南の死に際しては、同僚伊東甲子太郎による挽歌なども残されているが、その表現の嘆き節は、そういうものの常として、型通りの哀悼しか感じられない。それとは逆に、前者の句は無邪気そのものである。だが、言葉遊びの底にある無垢な響きにこそ、思想や時勢にとらわれず、無為で呑気で幸福な、試衛館のころの時間がみえてこないだろうか。その絆ゆえに、山南は、志はちがえどもあえて新撰組にいることを選択した。そしてその死も、この選択の線上にあると考えられないか。それは、結果、優柔不断とも見えたかもしれない。戦闘組織の機能を先鋭化することに没頭する副長土方が、山南の存在を危惧することになったのかもしれない。だが、『山南敬助と土方歳三』この二人のつきあいは、最後まで男の絆を見失ったものではない誠実なるものであった、そう私は想像するのだが。
土方、きみに介錯を頼みたい」
 ここは、壬生。『新撰組』屯所にほどちかい竹林の奥。薄い浅葱色の切腹装束に身をあらた
「めた新撰組総長山南敬助は、副長土方歳三とふたりきりで静かに向かいあっていた。
 如月春、夜明けまであとわずかの、凍えるような暁月夜。
「もはや何の悔いもない。土方、きみの、いやこの新撰組のために、いまなら私は笑っていける。新撰組の総長として潔く」
 敬助はぎこちなく笑って、ゆっくりと腰をおろし、端座する。この間、土方は無言で微動だにしない影だった。
 支度をおえ、敬助がふたたび見あげると、まるで表情のうかがえない土方が一気に刀を抜き放つ。
 空には、おりからおぼろに春の月が浮かんでいる。高々とかかげられた土方の白刃は、月華の蒼に弾かれて、一瞬、鋭くひかる。敬助は、脇差を腹にそえ、息をととのえて瞑目した。刹那、彼はその閃光のなかにいた。

「誰だ、てめえは」
 薄汚れた試衛館道場の片隅、振り向いた敬助の前には、すらりとした長身痩躯の男が立っていた。
「誰だ、と聞いてるんだ。てめえ、耳がねえのか」
「これは失礼。私は、先日から世話になっている山南敬助。貴殿は?」
「へえ、あんたが山南さんかい。沖田から聞いたぜ。おかしな名前の奴が食客になったってな」
 男は、敬助の誰何をさらりと無視し、くくっと喉奥で笑った。
 敬助は、むっとした。
「貴殿の名は?」
「聞けば、山南さんとやらは、ご高名な北辰一刀流の、しかも免許皆伝をお持ちらしいじゃねえか。おれも、ぜひ一手ご教授ねがおうか」
 男はそう言うと、手にした竹刀に勢いよく素振りをくれ、くすくす笑いながら位置を定める。敬助もつられるように前に出、構えた。
 男の構えは、下段。それもひどく右寄りの、癖の強い構えだ。たいして敬助は、俗に『鶺鴒の剣』と呼ばれる北辰一刀流独特の、下正眼。
「ふふん、それが鶺鴒の剣か。おもしれえ。ところであんた、山南ってのは偽名だな。本当はなんていうんだ」
「名を聞いているのは私だ。貴殿の名をお聞かせ願いたい」
 その言葉の終わらぬ内に、男は甲高い気合いを発し、敬助に躍りかかった。敬助はそれをひらりとかわした、はずだった。が、男の竹刀は、一瞬はやく彼の小手をしたたかに打っていた。
「あんた、沖田の坊やに散々やられたそうだな。ま、あいつぁガキだけどよ、この試衛館じゃ一番の使い手だ。しかたねえこった」
 男は、にやっと笑った。その侮蔑を含んだ、冷たい笑みに火をつけられて、敬助は裂帛の気合いで、上段に振りかぶった。
「やあっ!」
 瞬間、猛然と放たれた敬助の面打ちをからくも外し、男は間髪入れず、双手突きを繰り出す。敬助はそれを寸でのところで擦りあげ、胴を打つ。
「まだまだあ!」
 決まったかのように見えたその胴打ちだったが、男は無視して驚くほどの身軽さで飛びすさり、ふたたび下段に構えている。
「たあ!」
「浅いっ」
 激しい打ち合いだった。いつのまにか男の顔からは、笑みが消えていた。敬助も蒼白だ。二人は、ただ夢中で竹刀を振るいつづけた。
 やがて小半刻が過ぎる頃、二人の間には、再び静寂が戻った。荒い息づかいだけが、その沈む静寂の中に流れていく。男は特徴のある鋭い眼を細めながら、一瞬、敬助を見すえ、何を思ったか、遊びに飽きた子供のようにあっけなく竹刀を投げだすと、底抜けの明るい声で笑いだした。まったく無防備な笑いだ。
「あんた、なかなか使うじゃねえか」
 敬助は構えていた竹刀を下ろし、頬をゆるめる。
「貴様も、な」
「ははは、おれの剣なんて、ただの我流剣法だ。長丁場になれば、あんたみてえに歴とした流儀には、かなわねえ」
「そんなことはない。きみはすごい。真剣ならば、私が先に死んでいる」
「いや、あの胴打ちでやられてるさ」
「その前に小手が利いていた」
 男は羞かしげに頭をかいた。
「ふふ。ところで、まだ名前を聞いていないんだが」
「これは失礼、土方歳三ってもんさ。よろしくな、山南さん」
「サンナンと呼んでくれればいい」
 いっとき土方は沈思したようで、それから「なるほど」とつぶやき、朗らかに笑った。
「あんたは正直な男だな。どこかを脱藩してきた三男、本名を捨て江戸に流れてきた……か。おれは、てっきり素性の悪い浪人が、人のいい近藤にとりいって、貧乏道場に居ついたと思って喧嘩を売っちまったんだ。許してくれ、『サンナン』さん」
 敬助は、にっこりと微笑んだ。
「国は、仙台なんだ」
 土方はあわてて手を振り、
「おれは、詮索は嫌いだ。もうよしにしよう。それよりサンナンさん、つきあえよ。いける口だろう?」
 と言って、くいっと酒を呑むてぶりで、いたずらっぽく片目をつぶってみせた。敬助は笑って頷いた。
 山南敬助、二十五才。そして、土方歳三、二十三の浅い春だった。

 敬助は懐紙を巻いた脇差を手に、ふと微笑み、同時にそれを腹にぐいと突き刺す。その瞬間、上段に振りかぶった土方の刀の剣先が、光の矢となって降った。
「さらば、さらばわが友よ!」
 土方の悲鳴のようなその絶叫は、如月の凍る闇に儚く散った。
 春寒の、二人が出会ったあの日からちょうど八年目を数える元治二年二月二十三日。『新撰組総長』山南敬助の死に顔は、まさに『春の月』に酔うがごとく、静かで穏やかなものであった。

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